働く理由:誰もが生きていてよいのなら、私も生きていてよいのかも。

 ある時期から、自分はすこし他人の悪感情に敏感になった気がする。どういう思考回路なのか、誰かが攻撃されているのを見ると自分が全否定されたように感じて、その場でうずくまりたい気持ちに駆られる。いま思うと、部分的ではあるが共感性羞恥に似ているかもしれない。

 メディアから聞こえてくるような、性犯罪や家庭内暴力の被害者へのバッシングとか、生活保護バッシングとか、ハラスメントとか、暴力暴言とか虐待とか、国籍や障害やなんやの差別とか、あとは通りすがりに聞こえた誰かの怒声とか、そういったものに触れると発動する。ああ!自分はここにいてはいけない、死ななければならない、死ぬと迷惑だから消えたい、最初からいなかった生まれてこなかったことになりたい! そういう考えで頭がいっぱいになる。そうなったら深呼吸をする。

 そして差別や蔑視に対する抗議を目にすると、自分の存在までもが許されたような、安心感を得ることができる。

 

 そして今、私はざっくり言うと障害者支援を仕事としている。ついでに在学中、ちょっとした病気をして精神保健福祉手帳(つまり精神障害の手帳)を取得した。

 ついここまで生きのびてしまったが、前述の共感性の恐怖感のようなものと罪悪感と自己嫌悪が交わって、基本的に自分は生きていてはいけないのだということが前提になっている。なので、保健・社会福祉分野など、社会のセーフティネットに当たる仕事をする=どんな人間も生きていていい・生きていられる社会をつくる一端の歯車となる=自分も「生きていていい」の範囲に入れてもらえる、という自動思考が働いている。

 これが、恥と逃げばかりの猫背な自分が働く理由である。